お蚕さん達は、昨日から「眠」の状態です。
このあと脱皮して4令になるのかな?とにかく、脱皮もあと二回ほどだと思います。
先日、義父が
「今晩 蚕の先生が来るから、ビールの用意しといてね。」と。
かつて農協で養蚕指導員をしておられた方がいらして、私にお蚕さんの講義を聞かせてくださるということになったのでした~~
で、画像なんですが、桑の葉の鮮度を落とすことなく食べきらせるために、硬く絞ったガーゼをかけておくように教わりましたので、実践している・という様子です。
いや~・素晴らしい違いです!これで、一日1~2回の葉っぱ交換で済むようになりました~~!!きっと、お蚕さんの熟し方も違ってくるでしょうね!栄養豊富な状態が保てるんですもん。
お蚕さんって不思議な生き物です。
体の側面の点々が気孔です。「ちょいとテープで穴でもふさぐと、すぐコロリ
や。」。うう
食べる口の下に 糸を吐く口があると本で読みましたが、先生は「そりゃしらん。」。
昔・養蚕の指導を学んだときには、解剖学的なことはあまり触れてなかったのかな?
「すぐ孵化する卵と越冬する卵があるって聞きましたが?」
「…?そんなことはない。皆、休眠卵じゃ。一夏のうちに、何度も返すのは、塩酸使ったりして、プロが人工ふ化しとった。」
? じゃあ、やっぱり その土地その土地で、「常識」が異なったのかも。今より気温も低かったはずだし。
先生は、この村の農協で、周り中の村(当時なら道も悪いし 車も悪かったろうに、すんごい遠い村まで行ってらしたそう!)の幼蚕を2令ほどまで育てて、各農家に売り、指導して回ったそうです。
(ちなみに「ひと箱=二〇〇〇〇粒」という単位!地獄のような桑集めだ…
)
私の飼育法では、気温に左右されるので、成長がのんびりペースになるとのことです。
「そういえば、親父は七輪で温めとったわ!」…と・義父。
…そうか。何もかもが貴重で、爪に火をともすような時代に、夏場に火をおこしてまで育てるなんて、やっぱり 「お蚕さまさま
」な扱いだぁ…。
「まぶしなんぞ 作らんでも、こんなちょっとなら わらに入れてやりゃ、頭振って営繭する様子がよく見られるぞ。(なんか。そういう民芸品見たことあるような…)」
「その時になりゃ、体がすっきすき
になって、雌雄もはっきりわかる。さなぎなら 余計 わかるけれども、わしらは 蛆のままでもわかる。その時が来たら教えてやる。」
「卵は紙の上に産ませて、そのまま座敷にでも(直射日光が当たらないのが 家の奥にある座敷だったためか?)ぶら下げとけばいい。プロは春になったら28度で フカしたけど、ほっといても 蟻蚕が湧くで、みてりゃわかる。」
「羽化したいなら、繭の両端を かみそりで切り落としてやった方がいい。ほっといたら、液体で繭を溶かしながら出てくるけど、それは蚕蛾をくたびれさせるで、効率を上げるために、繭を切ってやった。その時になったら教えてやるで、電話しなさい。」
先生は、話しているうちに どんどん記憶の引出が開いてくる・とおっしゃっていました。
蚕振興のために走り回ったこと。インテリ系の人の「晴れ着撲滅運動」と戦ったこと。
絹100%の洋服を仕立てて、光る恥ずかしさをこらえて、絹の美しさを宣伝して歩いたこと。
「日本人が着物を着なくなったら、わしらやお蚕さんはどうなる!というて 戦ったもんじゃが。群馬のように 有力政治家が絹のスーツを着て歩いてくれるような支えがあったらな。もう少し違ったと思うな。」
専門学校で2年学んで、現場に出て、走り回って。
「昭和46~7年の、F型軟化病の発生は、本当にひどいものだった。5令まで育って、ゴール目前!というときに、ぼたぼたとお蚕さんが落ちて行ってしまう。
からいからいホルマリンを撒いて撒いて、それでもだめだった、全滅やった。
農家の人たちが辛かった、ひどい思いして桑集めて走って、もう少し!のときに、全部棚から落ちて死ぬ。死んだお蚕さんの 溶けたのがついた葉っぱを食べてうつる。
糸を吐かんと死んでいく。…辛かった。」
うらやましかったのは、子供たちの夏休みの宿題の話。
「夏休み前に、農協から、子供一人ずつに100粒ずつ配る。どの子のうちでもプロ級の爺婆がおるで、子供の代わりに育ててくれる(そう、子供は気まぐれ
)。
ほいで、休み明けに繭を持ってこさせて、農協で買い取る。その金で、図書やら給食やら賄うたがよ。
昔は子供も多かったで、かなりの収入じゃった。」
…いいなあ。昭和30~40年代の子供たちとお蚕さん。おとなも農協も、子供たちと近かったんだ。
私の飼育箱をテーブルの上にどん!と置いて、眺めながらビールガンガン飲みながら、
「姉ちゃん。クロロフィル化粧品・わかるか?」
「…葉緑素?…お蚕さんの…ウンチ?」
「あたり~~!あほじゃろ?女っちゃ~・高い金払ろて、蚕の糞 顔に塗ったくっとる!蚕みりゃ、気持ち悪いとぬかすがによ!面白いもんじゃ!」
もっと細かい飼育法も聞かせていただいて、とっても勉強になりました~~!!
ただ、やっぱり切なかった。
先生も農家の人たちも、お蚕さんの仕事を離れるときは不安だったと思うのです(楽になる部分もあると思うけど)。
数少ない現金収入だったろうし、桑園を荒らすことも忍びなかったろうし…。
稲作も一気に変化したころで、農家はどんなにか振り回されたことだろう。
お金になった時代もあるけど、水田に重油や水銀をまいた稲作というのは考えられない!
近くの婆ちゃんたちは、私の顔を見るたび、「お蚕さん・どうじゃいな?よう肥えたけ?」と聞いてくれます。
そろそろ担ぎの「モツ屋の婆さ」が姿を見せる頃だな。
「あのモツ屋のババん所にも、種持っていったのぅ。皆、どこのうちにも 蚕がおった。」と先生。
着物が着るものだった時分の空気が、 すこし自分の肌に沁みてきたような感じがしています。
《次女、お蚕さんを愛でるの図》
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