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信ずる者は…。

 私、宗教勧誘の方に踏み込まれると、話をしているのを聞いてるような顔をします。

よく来られるのは、輸血を禁じているというクリスチャンの団体。服装が似通っているので、遠目にもわかります。

 

 嫁いで間もないころは、朝早く起きて集会(?)をするという自己啓発みたいな団体の方たちがよくいらしてました。

 

 基本的に居留守・なんですが、うっかり遭ってしまったときは、とりあえず、その時の気分で対応です。

「今、出かけるところですから。」「長いお話は伺えません。」。

 あちらは何かのノルマでもあるのか、短いセンテンスの「神の御コトバ」を読み上げ、帰っていかれます。

 

 わざわざ歩き回ってらっしゃる人にじゃけんにするのも何なので、聞いてるような様子でいますと、

「さて!これはどういうものだったでしょう?」などと切り込まれ、「はい?質問に答えなければならないのですか?」な~んて、ばか丸出しの返答で 失笑を買います。

 私は、基本的に 団体と称するものが苦手です。宗教も然り。

 神仏という存在を 信仰しているほうだと思います。

 でも・それはあくまで、自分が生かされているこの世界・というものをそう呼んでいるだけのことで、昔、立派な方が開かれたお考えを、後の世に人々が、自分たちの思うように書き記したり、曲解したりして 文字や形式にしたものとは全く異なります。

 

 独身時分に、主として仏教系の偶像(あえてこの言葉使用)を制作する仕事に携わっていました。

 私が粘土や石膏や樹脂を使って、「仏像の決まり」に基づいて形作ったものを、キッタない現場にそぐわない 美しい袈裟を着たボンさんや信者が大型バスで乗り付けて(一番大きな団体は 関東からだったわ…)お題目上げて…。

  

 ぼろいトタン屋根の隙間から 差し込む夕日がなんだか神々しい…。

 

 団体・というのは、すべからく商売なんですね。

007 個人的には、宗教団体のお話よりも、こういう人たちの言葉の方が信じられます。

 すべてが正しいはずはないので、せめて嘘が少ない人の話を聞きたい。

 

 …私の母親という人は、宗教団体にはオオハマリしませんでしたが、何かにつけ「拝み屋」を頼る人でした。

 ここしばらくは いい拝み屋さんに会っていないようで その手の話は聞きませんが。

 

 許せないことが起こると、長い時間かけて 遠くの拝み屋まで出かけ、これまた長い時間待った上で さらに長い時間かけてクドき、交霊やら何やらでありがたいお話を聞かせてもらって、なンの涙かわからない、泣きはらした目で 家路につくのです。

 

 幼い私や姉をつれて。

 

信仰は とても大切なものだと思います。

でも、それは、目に見えない、直接耳には聞こえない、大きな存在に感謝して生きることであって、自分に都合のいい話をしてくれる団体を探すことではない。

 

 

 信仰って、その国、その村のルールになるものだと思います。

「これはしてはいけない。この場合を除いて。」という、暮らしの上での お約束を 自然に身につけるためのものだと。

 …そういう意味では今、この国は危険な状態だってことかも・ですね。

 

 003

今月号の「家の光」です。

 私はこの雑誌が結構好きなんですが、今回は特に「昔の話」のようなページが多くて ちょっとうれしいです。

「切れた電球に靴下をかぶせて繕う」・なんて、子供のころ目にした光景です。

 

刺し子の布巾もそうだけど、こういう小さなことの繰り返しで成り立ってる暮らしって、信仰そのものだと思うんです。

 

 「何かしてくれ・救ってくれ」じゃなくて、「終わらないように思える作業を続けていくうちに  何かが形になってることもあり、かと思うと 作業が終わりそうなところで 自分の命が先に終わってしまうこともある」…というような。

 

 今、毎日毎日 地べたに 這い蹲って、萱の株を興したり、石ころを拾い続けたりして、畑を整えています。

 休耕していた地面を手入れするだけでも、(機械をつかってさえも)こんなに手間がかかるのに、山を切り開いて 木を切り、株を興し、今の村に住んだ人たちは、いったいどれほどの努力をしたことだろう。

 

 たった一足の靴下のために尽くされた手間を思い、 履く家族のことを思いながら繕った人は、どんなふうに仕舞っていったんだろう。

014

 地面ばっかり見ている私に、本当に雪のように降り続ける今年の桜は なんとも優しくて、もう会えなくなった人の照れたような笑顔を思い起こさせてくれます。

 

 義母から、「あそこのおばあちゃん、今日、病院に来たらしいよ。よかった。家にこもってると、体がこわばってしまうで、皆 心配しとったでね。」と聞きました。

 

 たくさんの人々に、ありがたい教えを伝えて歩くのは、大変なことだと思います。

でも、そのために、家族の食事や、子供の学校などの基本的な暮らしを犠牲にしてはいけないと 私は思うのです。

 

 残る桜も 散る桜…。

桜は 散るけれど、地面にすき込まれて 土にかえって。

008 畑に行ってきます。

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コメント

信仰ってほんとに厄介なものです・・・。

義母は某団体に属しておりまして、朝に晩にお題目をあげています。
良い事があれば毎日祈ったおかげ、悪い事はお題目が足りないからだ。
一見前向きな姿勢に思えるでしょう?

でも数年前、家族中を巻きこんで義父が経済破綻した時、義母は全ての人に怒り狂いながら部屋にこもり大声で祈るだけでした・・・。

義父は車で逃げ、残されたわたしと旦那で借金を片付けました。
2年くらいはものすごい貧乏でした。

そして必死で人並みの生活を取り戻した今、義母は御仏壇に向かって感謝の祈りを捧げています。

荒れていた時に義母が、旦那(息子)に向かって放った数々の暴言は、旦那の心を深く傷つけたのに、謝罪は仏壇に向かってしか出来ないのかな。

義母にとって信仰は世界基準で絶対的なもの。
わたしにとって信仰とはいろんな形で個人の中にあるべきものです。
個人より尊重されるなんて、おかしい。

唯一絶対的な信仰の対象を持ってしまうと、あちこちに転がっている「ありがたいもの」が見えなくなってしまうのかなあ。
悲しみも多いけど、素敵な事もいっぱいあるのに。

わたしには義母がとても可哀そうな人に見える時があります。

長々と愚痴っちゃいました、すみません~~;;

投稿: おつう | 2009年4月14日 (火) 22時18分

おつうさまclover

 大事なお話を聞かせて下さってありがとうございました。

 大変なご苦労なさったんですね。

 そして、お義母さま、お気の毒ですね。「ごめんなさい」と「ありがとう」が言えない人生は淋しいですね。

 私の叔母は、小学生の私に、「(某団体に入って)南無妙法蓮華経を唱えないと死んだら地獄に落ちて、頭を八つ裂きにされるよ!」と、暗い仏間の隅で言いました。

 私は、「仏さんはそんなことしない!おばちゃんは変だ!」と思いました。怖かった。
 今も叔母は、何かというと大声でお題目上げて(いとこたちも並んでやり始めますよ。他宗の仏壇に向かってでも。)、納得のいかないことが起こるたび、合掌した手が震えるほど、自我を撒き散らしています。

 悟る・ということを目標としないんでしょうね。悟ってもらっては困るというか。


 役に立つ人間にはならなくてもいいけど、やっぱり、人に迷惑(心配・というのは除いて)をかけない様に生きていきたいな…と思うんですが…(難しいんですけど!!)。

 とにかく、おつうさん、おからだ大切になさってくださいね!


 余談:「おつうさん」って書くたび、むか~~し、役所さんがやってた宮本武蔵を思い出してしまいます~~!!「お・おつうさん…。」としか言えないの!子供心に歯がゆかった!!
 奥田さんの又造(だっけ?)の熱演も怖くてよかったっす!
 …って・知りませんよね…crying

投稿: ゆん | 2009年4月15日 (水) 09時59分

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